武将印紹介5 「加藤清正」(墨将印)
永禄5年6月24日と慶長16年6月24日。
今日は加藤清正の誕生日であり命日でもあります。
猛将であり築城の名手
秀吉の子飼いの武将として知られる勇猛果敢な人物で、清正は190㎝を超える身長だったといいます。藤堂高虎・黒田如水と並ぶ築城の名手としても有名です。
武闘派として名高い清正ですが、秀吉について戦場にも出るようになった当初は、戦後の占領地・没収地の管理や蔵入地(直轄領)の管理など、武将としてではなく事務方としての手腕が高く評価されていたといいます。そんな清正も秀吉が九州統一を統一する頃には武名を高め、肥後北半国19万5千石の大名という大抜擢を受けています。
さらに朝鮮出兵の際には「鬼上官」と恐れられたとも伝わります。
朝鮮出兵から帰国後の1599年3月には、福島正則や黒田長政らと共に有名な襲撃事件を起こします(笑)
その後の関ヶ原の戦いには九州の地から家康方に加担。小西行長の宇土城・八代城に攻めかかり、黒田・鍋島勢と共に立花宗茂の柳川城を開城させています。
豊臣秀頼に上洛を求める家康に対して二条城で秀頼との直接会見を実現させた功労者ともなりました。豊臣家への恩義も忘れなかった清正は、この会見に自ら秀頼の警護役を買って出て参加しています。もし秀頼に対して家康が無礼な態度をとった際には、家康を殺すつもりで短刀を隠し持ち会談に臨んだと言われており、秀頼の為に徳川家とも一戦交える覚悟だったと伝わります。
清正はこの会見の3ヶ月後、生誕日と同じ6月24日に50歳で亡くなりました。
清正公の築いた熊本城の急勾配の石垣などは、現代人が見ても圧巻ですが、その堅城さは西郷隆盛の一言に尽きると思います。
西南戦争の時、西郷隆盛は2ヶ月かけても熊本城を落城させられず「私は政府軍に負けたのではない。この城を築いた加藤清正公に負けたのだ」と語ったといいます。
何とも気持ちのいい一言ですね!!^^
■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)
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