【大野川合戦祭り出店記念商品】
島津軍のお家芸と言われた『釣り野伏せ』をイメージしたトートバッグ。■の銀色は敵勢で□の白色は島津軍を表しています。
釣られた敵勢がおびき出され、島津軍に包囲殲滅される図をデザインしました。
島津家久は戸次川合戦(今の大野川)において、大友宗麟の援軍要請に応じて九州入りした豊臣秀吉の軍監仙石秀久率いる四国勢と対陣します。
秀吉からの指令は援軍到着まで待機でしたが、大友方の鶴ヶ城落城が近かったことから秀久は長宗我部元親らの反対を押し切り河を押し渡ります。
家久はそれをみて一計を案じ、河を十分に渡った四国勢を釣り野伏せで退きつけ、退路を断ちます。
この時秀久は四国勢を見捨ていちもくさんに逃げた事から秀吉の怒りを買い高野山へ追放処分となりました。
元親の長男信親や十河存保らはこの戦いで奮戦の末討ち死にし、元親は悲嘆に暮れ、以後精彩を欠いたと言われています。
現地には信親や存保らの墓が立っており、今もその死を悼む人々の手で安らかに眠っています。
信親は容姿端麗で戦名人の器だったと言われていますが、乱戦中にかつて敵対した十河存保に呼び止められ、存保が前線に留まり戦った事から、討ち死に覚悟で加勢したとも言われています。
仙石秀久はその後秀吉に許され、大名として返り咲きしますが、長宗我部家は関ヶ原合戦で滅亡してしまうのです。