御城印紹介39 浜田城(墨城印)
2025年4月の墨城印最新作は「続日本100名城」にも選ばれている浜田城です^^

その歴史は関ヶ原の戦い後、徳川家の直轄領となった石見国の中でも津和野藩に続いて立藩が許された浜田藩のお城となります。
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藩で言うと、のちの寛永年間には吉永藩も立藩されましたが40年足らずで廃藩となっているので、石見国内では直轄領(幕領)以外としては2藩しか存在していなかったことになります。
そんな重要な地を任されたのが伊勢松坂藩主を務めていた古田重治で、天下も定まった1619年に5万4000石を与えられて浜田城を築城しました。その際「鴨山」と呼ばれていた山は「亀山」へと改名。浜田城は別名「亀山城」とも呼ばれています。その後2代藩主・古田重恒が起こしたお家騒動(古田騒動)によって古田氏は改易。以後、浜田城には譜代・親藩といった重臣が入封し、西国鎮衛の拠点として知られる福山城と同様、長州藩への抑えとしての役割が高まりました。
また浜田城は平山城であるとともに海に面した海城でもありました。浜田市様のHPには浜田城の歴史として1626年スペインの宣教師が船上から築城されてまもない浜田城を見て「立派な城である」と報告していることなども紹介しています。
話はまた歴代城主に戻りますが、、、古田家に代わり、松井松平家が5代、本多忠勝の嫡流にあたる本多家が3代、再封となった松井松平家が4代と続き、幕末頃には親藩大名である越智松平家が4代にわたり治めました。しかし水戸徳川家から養子として入っていた最後の藩主・松平武聰の治世の慶応2年(1866)、第二次長州征伐で大村益次郎率いる長州藩に浜田城を攻められると、武聰は戦わずして後退を決定。逃走の際には松平軍が自ら城下に放火した火が城にも燃え移り落城、時期は定かではないですが、のち廃城となったと伝わります。
ちなみに近年の資料によって、浜田城落城の数日後には三重櫓(天守)に保管されていた資料を取りに入ったという記録も見つかった事から、この戦いでは三重櫓は焼けずに無傷に近い状態で残っていたと考えられています。現在まで残っていれば・・・とも思ってしまいますが、ぜひ浜田城の二の門跡の枡形虎口の遺構などから当時を偲んでみてはいかがでしょうか。
■浜田城(亀山城)■
住所:島根県浜田市殿町
アクセス:JR浜田駅より徒歩20分
JR浜田駅より周布方面行きバス停「城山公園前」下車 徒歩5分
北前船寄港地として知られる『日本遺産』外ノ浦を見下ろす本丸からの眺望もぜひお忘れなく♪^^