御城印紹介36 岩村城(墨城印)
東美濃を代表する名城・岩村城(岐阜県恵那市)。
見渡しの良いところにあるお城ではないのと山中にあるのであまり実感がわかないかも知れませんが、高低差180m・標高721mと日本で最も高い場所にあるお城となります^^
そのため木曽谷から立ち上る霧に包まれることが多く霧ヶ城とも呼ばれており、近年では日本三大山城(他は大和高取城と備中松山城)の一つに数えられ、『日本100名城』にも選定されています。
石垣や遺構の綺麗な城として大人気の岩村城。
「女城主」の城としても有名ですが、山城や戦国時代に興味のない方でも魅入ってしまうくらいのおすすめのお城の一つです^^
そんな岩村城ですが、本日11月14日は女城主・おつやの方が守る岩村城が織田家に降伏し開城した日となります。
武田家と織田家の間で翻弄された岩村城とおつやの方。美味しい恵那で造られた日本酒を吞みながら想いに馳せるのも一興ですね^^
元亀三年(1572)11月14日 岩村城陥落
岩村城は東美濃の有力国人・遠山氏の本拠で、この頃の当主遠山内匠助景任は織田信定の娘おつやの方(お直とも)を妻に迎えて織田方となっていました。つまり遠山景任夫人は織田信長の叔母ということになります。
元亀元年(1570)、武田信玄の重臣で当時信濃高遠城主だった秋山伯耆守信友が三千の兵を率いて東美濃に侵攻、対する景任は遠山一族を糾合して五千の兵で迎撃、岩村城の南・上村(かんむら)で激戦となりました。兵数では勝っていたものの秋山勢の勢いに圧倒され、景任は負傷するなど苦戦を強いられます。勢いに乗る秋山勢が岩村城に攻め寄せると、景任は信長に救援を要請、信長は明智光秀を差し向けました。光秀と景任の奮戦でこの時はかろうじて城を守りましたが、翌年十二月に景任は三十六歳の若さで没しました。上村合戦の際の負傷が原因だったのかもしれません。この事態に信長は、五男の坊丸(当時八歳)を岩村城に送り込みました。叔母である景任夫人に坊丸の後見役を任せたわけで、ここに景任夫人は「女城主」として知られることになります。
さて、武田信玄はこの年の十月三日、ついに上洛の兵を挙げ甲府を進発、別働隊として秋山信友に再度の岩村城攻撃を命じました。城兵らはよく防ぎますが、今回は信長の救援も当てに出来ず、いずれ落城するという不安はあったでしょう。一方、天険の要害岩村城は力攻めではそう簡単に落ちないと考えた信友は、開城するならば城兵は罰しない、おつやの方は自分が保護するが坊丸は甲府へ送る、などの条件を城中に伝えたところ、景任夫人はこれらの条件を呑んでこの日開城しました。
翌年二月、信友と景任夫人は岩村城内で華燭の典を挙げ夫婦となりました。しかし二ヶ月後に信玄が陣中に没すると、両名の前途に俄然暗雲が立ちこめます。天正三年(1575)五月に信玄の跡を嗣いだ勝頼が長篠で大敗すると、信長は嫡子信忠に岩村城攻略を命じました。五ヶ月に及ぶ籠城戦の末に信友は降伏開城し、ここに信長は岩村城を再び奪い返します。
信友夫妻は信長の手によって処刑されました。一説に、逆さ磔という非人道的なものだったとも伝えられます。信友享年四十九歳。景任夫人は信長を呪いながら死んでいったとも言われます。
叔母を自らの手で処刑した信長は同十年六月に明智光秀の謀反により自刃しました。享年四十九歳でした。