武将印紹介56 真柄直隆(墨将印)
9月の新作武将印は朝倉家の猛将として知られる真柄直隆です^^
姉川の戦いでは大太刀を手に馬にまたがり、織田・徳川連合軍の陣深くまで攻め込む一騎当千の活躍をしたともいわれています。
浅井家を代表する真柄直隆、この機会にぜひご検討下さい。
真柄直隆(まがらなおたか、1536年~1570年)
『浅井三代記』などの軍記物で大活躍した身長2メートル越えの大男で、熱田神宮に所蔵されている身長よりも大きい「太郎太刀」を武器にしたと伝わります。足利義昭が朝倉家を頼って越前の地に訪れた際には、義昭の前で大太刀を振るって見せたともいわれています。
ただ残念なことに猛将として知られている真柄直隆ですが、弟の直澄などの活躍もごっちゃ混ぜになってしまっているのではともされており、実態がほとんど伝わっていない武将の一人でもありました。
研究が進んだのは最近のことで、2021年2月福井県立歴史博物館様が京都の古書店にあった田代家文書約90点を購入した事によります。この田代家文書の中の一つが『真柄氏家記覚書』でした。これにより父が十郎左衛門家正であったことや、直澄が十郎(通説では十郎左衛門)であった事などいろいろなことが分かってきております。
また真柄一族についても代々、大太刀使いであったことが分かり、直隆の祖父・家宗が書いた約10メートルにも及ぶ巻物『野太刀ノ兵法』によって、一族相伝の大太刀兵法があった事も分かりました。私はまだ見た事ないのですが、城門や塀を破壊して突破口をつくる役目も担った、先陣としての大太刀の振るい方が記されているそうです。
さらに姉川合戦にも参戦していた父・家正ですが合戦直前に十郎左衛門の号を息子の直隆に譲っていたそうです。そのため、まだその事実が伝わっていなかった『信長公記』では、父と直隆・直澄などがまとめて「十郎左衛門」と記されてしまったのだと考えられています。
この合戦で家正・直隆父子ともに討ち取られていますが、直隆を討ち取ったのは徳川家の匂坂(さぎさか)式部であったとも、青木一重だったとも伝わっています。なぜ討ち取ったとされる人物が2名も伝わっているのか疑問もありましたが、この新資料により少し分かった事があります^^
父・家正を討ったのは匂坂式部。では直隆を討ったのは、、、
十郎左衛門は徳川方の匂坂三兄弟を相手に奮闘したもの匂坂式部によって討たれたとされていましたが、『真柄氏家記覚書』の発見により式部が討ったのは父・家正だったことが分かりました。
「一つの資料が見つかっただけで決めつけるのは・・・」
と思う方も多いかと思いますが、面白いのがここからです。
『真柄氏家記覚書』をまとめたのは田代養山(1613-1697)という人物ですが、養山は当時まだ生き残っていた朝倉義景の同朋衆・策庵などの旧朝倉家臣だけでなく、当事者である匂坂式部本人からも話を聞いたとされています。
覚書によれば「此式部後ニ黄門秀康卿召テ住宅ス」とあり、匂坂式部はのちに結城秀康に仕えて福井城下に住んでいたため、直接話が聞けたとされています。匂坂式部の死期についてはもっと早い時期の記録もあるので異論がある方もいるかと思いますが、父の養仙からも真柄家についての話は色々と聞いていたようです。
話はそれますが、、、真柄(田代)養仙の名前も出ましたので、田代家についてもここで紹介ですm(_ _)m
ーーー
田代家は鎌倉時代に源頼朝の覇道を助けた田代信綱から始まる関東の名家で、戦国時代初期には有名な名医・田代三喜を輩出しています。三喜は「日本医学中興の祖」として知られ、曲直瀬道三・永田徳本と並ぶ「医聖」の一人なので、その名をご存じの方も多いかと思います。
そんな医家・田代家を継承したのが真柄直隆から六親等(従姪孫)にあたり、医学にも精通していた養仙でした。養仙(1569-1649)は52歳の時(1620年)江戸に行き、田代綱通の猶子となり、田代家の名跡を相続して福井藩田代家の初代当主となりました。
その養仙の子・養山が、直隆の曽祖父・家次から父・養仙までの約170年間の事績と系譜をまとめたのが『真柄氏家記覚書』となります。ちなみに養山も医術に精通しており、幕末に活躍した福井藩士・橋本左内の父も田代家出身となります。こちらも面白いので気になる方はぜひ調べてみてください^^
ーーー
上記の通り『真柄氏家記覚書』は福井藩田代氏に続く系譜をまとめたものなので、一族で猛将としても知られていた真柄直隆についても触れてくれていた、、、ということです。
最後に直隆を討ったのが匂坂式部ではないのなら誰だったのか。
今のところの史料ではわからない、です。
式部でないのなら青木一重に討たれたのか、無名な兵士に討たれたのか、、、
真柄直隆についてもまだまだ分からないことが多い武将なので、今後も色々な史料が見つかると良いですね♪^^