武将印紹介54 伊達政宗(墨将印)

本日8月22日は徳川家康が伊達政宗に対して「百万石のお墨付き」を与えたとされている日です。

時は慶長5年(1600年)7月、徳川家康が上杉景勝の会津討伐を決めて江戸を出陣すると、政宗も24日には上杉方の甘粕景継が城代を務めていた白石城(景継は若松城に詰めていたため実際に守備していたのは登坂勝乃)に攻め込み翌7月25日には勝乃が降伏する形で旧領を取り戻しました。

豊臣秀吉の「奥州仕置」により領地を没収されて以来、伊達家の旧領を取り戻すために機会を窺っていた政宗にとっては野望が前進した日といえます。同日、家康は挙兵した石田三成を討つために即刻上洛することを下野国小山での軍議いわゆる「小山評定」で決めて軍を西方に向けました。日本を二分した大決戦「関ヶ原の戦い」への序曲といえます。

そんな政宗に対して徳川家にとっては後顧の憂いとなる上杉家への牽制を依頼した家康。1600年8月22日付で上杉氏が領有していた旧領7郡(刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・永井)を与えるという覚書、いわゆる「百万石の御墨付」を与えました。当時の政宗の所領は米沢を基盤として58万石。会津の旧領7郡49万5千石が手に入れば表高で100万石となる算段でした。

 

しかし戦後には、味方側であるはずの南部信直の所領に対して、政宗が一揆の扇動(和賀忠親への支援)をしていたということが家康にも伝わり、約束は反故になったとされています。1601年の論功行賞では刈田郡と近江の飛び地の2万5千石を加増されただけで終わりました。政宗としては無念だったとは思いますが、のちに北上川や仙台平野の整備、江戸への海運事業などで実質的な内高(実高)は100万石を超えていたとされています。

 

ちなみに第一弾の墨将印で使用しているこちらイラストですが、さらに手が加えられた形で、東北大学金属材料研究所-KINKEN-様のスーパーコンピューター「MASAMUNE-IMR」の筐体パネル部分にも採用されております!!

「伊達者」の名に相応しいカッコ良さです!!^^

 

画像は金研広報(金属材料研究所-KINKENー)様(@Kinpro5)Xより

 

どちらかと言えば初期の作品となりますが、Tシャツなどでも人気の墨絵柄ですので、ぜひ武将印・Tシャツなどもご検討いただけましたら幸いです。

 

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