武将印紹介51 堀尾吉晴(墨将印)

本日はその温厚な性格から「仏の茂助」と呼ばれた人物、そして6月17日が命日となる堀尾吉晴をご紹介となります^^

 

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岩倉城主織田氏に仕えて以降、天下人の歩みを近くで支えた人物で、佐和山城・浜松城・松江城などの城主を務めるなど豊臣・徳川政権下でも重要な立場を任されました。
戦場では「鬼茂助」とも呼ばれた勇猛果敢な武将で左頬に傷跡があったとも伝わります。

 

慶長十六年(1611)6月17日堀尾吉晴死去

 後に豊臣家三中老の一人として知られる堀尾吉晴は天文十二年(1543)、尾張守護代・岩倉織田氏(信安)の家臣・堀尾中務丞泰晴の嫡男として尾張丹羽郡に生まれました。幼名二(仁)王丸、通称は小太郎、茂助。後に帯刀先生(たてわきせんじょう)に任ぜられます。なお、諱は「可晴」「吉定」「吉直」とも記録に見えます。

 当時岩倉織田氏は台頭してきた織田信長と対立していましたが、永禄元年(1558)の浮野の戦いで敗れると形勢は一気に傾き、翌年信長に降伏開城するという結果になります。泰晴父子は信長に仕えたようですが浪人説もあり、信長の稲葉山城攻めの際に猟師となっていた茂助が木下藤吉郎に城への間道を教え、そのお陰で秀吉は一番乗りを果たしたとする逸話があります。話の真偽はさておき、確かな時期は不明ながら吉晴は信長に仕え、やがて藤吉郎(秀吉)の与力として付けられたのは間違いありません。

 吉晴は元亀元年(1570)の横山城(滋賀県長浜市)攻めの際に秀吉の臣となり、浅井氏が滅んで秀吉が江北の領主となった際、百五十石を与えられました。その後吉晴は秀吉に従って各地を転戦、天正五年(1577)に秀吉が播磨へ入ると姫路の内で千五百石を加増され、鳥取城(鳥取市)や備中高松城(岡山市)の開城接収の際にも検使を務めています。

 同十年の山崎の戦いでは先鋒鉄砲隊となって活躍、戦後丹波黒井城(兵庫県丹波市)三千五百石を与えられ、同時に丹波氷上郡内にて六千八百石を領しました。その後も加増を重ね、賤ヶ岳の戦いの後に若狭高浜一万五千石、十三年の佐々成政攻めの後には近江佐和山城(滋賀県彦根市)にて四万石を与えられ、豊臣秀次の付け家老を命ぜられています。

 さらに九州攻めの後には従五位下帯刀先生に任ぜられ、同時に豊臣姓をも与えられると、小田原攻めの後には徳川家康の去った遠江浜松に移封され十二万石を領しました。吉晴は秀吉没後の慶長四年(1599)十月に家督を嫡子忠氏に譲り、隠居料として越前府中に五万石を与えられます。翌年の関ヶ原合戦の際には東軍に属しますが、浜松で東上する家康に謁しての帰国途中、三河池鯉鮒(現知立)にて水野忠重・加賀井秀望と酒宴を催した際、席上西軍に加担していた秀望が忠重を殺害するという事件が起きました。吉晴は秀望を斬り倒しますが、吉晴が忠重を殺害したと誤解した水野家中の士に斬りかかられ負傷するという奇禍に見舞われています。

 関ヶ原の後に忠氏が出雲・隠岐二十四万石を与えられ月山富田城(島根県安来市)へ赴くとこれに従いますが、同九年八月に忠氏が没したため、わずか六歳で後を嗣いだ孫・忠晴の後見を務めました。そして松江城築城を開始しますが、その完成を見ることなく、この日六十九歳の生涯を閉じています。