武将印紹介43「筒井順慶」(墨将印)
今月11月の新作武将印ですが筒井順慶となりました。
36歳で亡くなっていますがその人生の半分、18年間を宿敵ともいえる松永久秀との戦いに費やした大和国の武将となります。順慶は全国的にはマイナーな武将ではありますが、歴史好きでない方でも知っていることわざ「元の木阿弥」・「洞ヶ峠を決め込む」などの由来になるなど、日本人にとっては意外と身近な存在なのかもしれません。
また「洞ヶ峠を決め込む」という逸話から日和見の代名詞となっていますが、実際は結構動いていたことが分かっています。
こちらの内容が分かる伝承や書状などはまた機会があれば・・・m(_ _)m
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陽舜房順慶
後に大和国主となった筒井順慶は天文十八年(一説に三月三日)、興福寺官符衆徒・栄俊房順昭の子として筒井城(奈良県大和郡山市)に生まれました。幼名藤勝(丸)、通称六郎・五郎・藤勝のち藤政を名乗り、永禄九年九月に得度して陽舜房順慶と号します。
父順昭が天文十九年六月に没し、わずか二歳で家督を嗣ぎました。永禄二年(1559)八月、三好長慶の重臣・松永久秀の大和侵攻により筒井城を追われた順慶(当時は藤勝)は、以後椿尾上城(奈良市)などに拠って久秀と繰り返し戦います。同九年六月、順慶は三好三人衆と組んで久秀と戦い、筒井城奪回に成功しますが、同十一年六月には再び松永方に奪われるなど、一進一退の戦いが続きました。この間の同十年十月には、南都で繰り広げられた戦いで東大寺の大仏殿が兵火により焼失しています。同十一年六月、順慶・三好三人衆は久秀の一方の拠点・信貴山城(奈良県平群町)を奪いますが、九月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、久秀はすかさず秘蔵の茶器「九十九(つくも)茄子」と名刀吉光を献上して信長の配下となり、順慶は劣勢に立たされます。
多くの国人衆が久秀に屈していく中、順慶は根強く戦いました。そして元亀二年(1571)八月四日、辰市(奈良市)で久秀に大勝した順慶は急速に勢力を回復、逆に久秀は信長からの離反を繰り返したこともあり、心血を注いで築いた多聞山城(同)をも明け渡して信貴山城に逼塞します。
順慶は天正四年(1576)五月、信長から大和の支配権を認められると、以後は信長の配下として行動し、信長の命により郡山城(同大和郡山市)へ移りました。信長没後は秀吉に仕え、同十一年三月以降は北伊勢(対滝川一益)〜近江(対柴田勝家)を転戦、翌年の小牧・長久手役にも出陣しています。しかしこの頃から胃病を患っていたようで、それが七月に悪化、回復することなくこの日郡山城にて没しました。享年三十六歳。信仰心が厚く、謡曲や茶にも堪能で教養ある武将として知られています。