武将印紹介37「鳥居元忠」(墨将印)

本日8月1日は鳥居元忠が亡くなった日となります。

そしてその首を獲ったのは雑賀孫一
雑賀一族である鈴木家には、伏見城の戦いにおける元忠と孫一の不思議なやり取りが伝承として伝わっています。

鈴木家に伝わる鳥居家との繋がりにつきましてはYouTube「戦国魂チャンネル」で紹介しております。

伝承だからこその秘話をぜひご覧ください^^

 

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慶長五年(1600)8月1日 鳥居元忠自刃/伏見城陥落

この日、関ヶ原合戦の始まりを告げた「伏見城の戦い」は西軍側の攻撃に遭い、徳川家康家臣で忍城主・松平家忠が討死、城将の鳥居元忠は自刃しました。家忠享年46歳、元忠享年62歳。

 

 この年の六月、徳川家康が会津征伐に出陣する際、伏見城(京都市伏見区)には鳥居元忠・松平家忠・内藤家長らを入れて留守を頼みますが、家康不在の隙を狙って挙兵した石田三成ら西軍は真っ先にこの伏見城へ攻め寄せ、七月十九日に宇喜多秀家を総大将とする四万の大軍で城を包囲しました。

 西軍は早速使者を送って開城を迫りました。当然元忠はこれを拒否、かくして伏見城攻めは開始されますが、その際近江の代官岩間兵庫(光春)・深尾清十郎は甲賀衆五、六十人を引き連れて加わり、また宇治の茶商上林(かんばやし)竹庵も共に籠城を願い出ました。岩間らはともかく竹庵は武士ではなく、元忠は「窮する余り町人まで籠城させたと言われるのは残念」と断りますが、竹庵は聞き入れず「私は内府に受けた恩は大きく、願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならこの場で腹を切る」と顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は入城を許したと伝えられます。それもそのはず、竹庵は元は丹波何鹿(いかるが)郡上林郷の武士で越前守政重と名乗り、元亀二年三河に赴き家康に仕えました。長久手の合戦では首二級を挙げ、家康から感状と槍を賜って岡崎町吏となり、天正十八年に茶道を志して宇治に帰るという経歴の持ち主だったからです。元忠は自ら本丸を守り、二の丸には内藤家長・元忠と佐野綱正を、三の丸には松平家忠・近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀(甲賀とも)作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配し、徹底抗戦の構えを取りました。

 西軍は早速攻撃を開始しました。二十一日には外濠まで詰め寄られ激しい銃撃戦が展開されますが、元忠らは頑強に抗戦して十日余り持ちこたえます。しかし三十日、西軍の近江水口城(滋賀県甲賀市)主・長束正家が一計を案じ、城内の甲賀衆のもとに矢文を射込み「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と揺さぶりを掛けると、郷里に残した家族を心配する甲賀者衆はこれに応じ、早速実行に移しました。

 この日未明、城内の一角に火の手が上がり、甲賀者は城壁を壊して西軍を引き入れました。ここにいたっては元忠もどうにも出来ず、松平家忠・近正、上林竹庵らはなだれ込んできた大軍の前に次々と討たれていきました。元忠はさすがに奮戦して三度敵を追い返し最後まで必死に抵抗しますが、ついに寄せ手の雑賀孫一に討ち取られました。

 元忠享年六十二歳。首は大坂城京橋口に晒されたといいます。この時の彼らの血に染まった伏見城の床板が後に京都市内の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、今もなお「血天井」として現存し当時の激戦を伝えています。