武将印紹介31・32「北条氏政・氏直」(墨将印)

4月に発売しました墨将印ですが、ブログでは紹介しておりませんでしたので今更ながらご紹介です^^;

新武将は5月3日の「北條五代まつり」のタイミングに合わせて北条氏政・北条氏直の2枚でした。これで小田原北条五代が勢ぞろいした事になります♪^^

北条氏政

4代目の氏政は愛妻家と伝わっており、北条・武田・今川の三国同盟が破棄となった際にも、信玄の娘である妻・黄梅院との離縁を渋ったと伝わります。一般的には武田家との同盟が回復される前に黄梅院が亡くなってしまったことから再会も果たされず、氏政は同盟締結後に黄梅院の遺骨を分けてもらえるよう信玄にお願いして早雲寺で手厚く埋葬したといいます。

また「汁かけ飯」の逸話や『甲陽軍鑑』に伝わる麦の話などから後世では暗愚な人物ともされておりますが、関八州を統一するかの勢いで北条家の最大版図を実現させたことからも、内政・軍事共に優れた人物だったと思われます。1680年には嫡男の氏直に家督を譲って建前としては隠居していますが、父の氏康がそうだったようにその後も影響力は保ち続け、氏直と北条家の治世を支え続けました。

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今回の墨将印は御歌頭さんに「小田原征伐時に豊臣軍を迎え撃つ氏政公」をイメージして描いていただいた作品となります。
手に持っている旗は氏政公の馬印「鑊湯無冷所(かくとうにれいじょなし)」です。『北条五代記』によれば、氏康公の馬印が「五色旗」、氏政公は白地に「鑊湯無冷所」、氏直公は金地に「無」の一文字だったとされています。

この言葉の意味は「煮えたぎった釜に冷たいところはない」(目の前の苦難から逃げるのではなく、何事も雑念を持たず一心不乱に立ち向かう)という心構えを示した禅語が由来となっています。大軍の豊臣軍を前にした北条家の心情も示しているかのようなと馬印といえます。

 

北条氏直

小田原北条家としては最後の当主となった氏直。名実ともに一人立ちした1580年代後半は、まだ20代だった氏直にとっては難しい選択ばかりでした。『北条記』などによれば虚弱な体質であったと伝わる氏直。1590年(26歳)豊臣秀吉による小田原征伐では、弁明も空しく豊臣軍を小田原城で迎え討ちます。降伏開城後には父・氏政と叔父の氏照は自害を命じられましたが、氏直は高野山で謹慎となりますが、命は許されました。高野山での1年ほどの過ごしたのち、河内国などで1万石が与えられて大名家としても返り咲いています。

 

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氏直公は身体も弱かったと伝わるので、甲冑姿などでなく直垂に陣羽織姿でのイメージとしました。また手に持っている書物ですが、北条家存続のために調停役として尽力してくれた黒田官兵衛に報いるために日光一文字の太刀・北条白貝・吾妻鏡などを送ったと伝わるので「吾妻鏡」のような書物を持たせています^^


後世では氏直公も平凡な人物だったとされがちですが、戦乱の世でなければ家臣や民想いの名君であったことでしょう。『禄寿応穏』のという北条家の伝統も継承されており、小田原城の籠城中にあっても民を苦しめるような追加徴収などもせず、非番の兵には娯楽も認めていたと伝わります。

また秀吉の小田原征伐の40年前、氏康公統治下の1550年頃には家臣や在地領主が勝手に民衆から二重徴収できないよう、年貢のほかは段銭・懸銭・棟別銭の「三税」だけを納めれば良いと税制も明瞭化され、北条家は諸大名の中でも税率が軽かったとされています。
北条家に代わって関八州を任された徳川家康は、全く馴染みのない国への国替えという苦労もありましたが、それ以上に長年北条家の庇護下にあった民衆を統治するのは一苦労だったともいわれています。

 

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■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)