柳生石舟斎 命日
本日4月19日は柳生石舟斎(宗厳)の命日となります。
家康に無刀取りを披露して柳生家の地位を確立した「天下一の剣」
簡単な人物説明も含めてご紹介です^^
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慶長十一年(1606)4月19日
上泉信綱より剣術新陰流の印可を受けた柳生石舟斎宗厳が没す。享年78歳。
柳生石舟斎宗厳は享禄二年(1529)、大和柳生谷の国人・柳生美作守家厳の嫡子として小柳生庄(奈良市)に生まれました。普通、宗厳の生年は『寛政重修諸家譜』を始め各種人名事典でも大永七年(1527)とするものが多いのですが、柳生家では享禄二年説を伝えていますので、本稿ではこれに従うことにします。
柳生氏は越智氏を盟主とする「散在党」と呼ばれる国人集団の一員で、筒井氏の戌亥脇(いぬいわき)党とは対立する関係にありました。天文五年(1536)六月、木沢長政が大和へ侵入すると柳生家厳は長政と結びますが、同十三年に筒井順昭に小柳生城を攻められ降伏、以後筒井氏に従うことになります。しかし松永久秀が大和へ侵入すると、柳生家厳父子は筒井氏の下を離れて松永氏配下の将として行動しました。
室町時代の柳生氏は、意外なことに刀術ではなく弓術に秀でた家として有名でした。そんな柳生家にあって、戦国期に誕生した宗厳は刀術に優れ、五畿内一の兵法者と呼ばれる程になります。しかし永禄六年、その宗厳の自尊心が木っ端みじんに砕け散る出来事が起こりました。剣聖・上泉信綱との出会いです。廻国修行中であった信綱は、伊勢国司・北畠具教の紹介で大和を訪れました。そして、宗厳からの試合の申し込みを快諾します。
場所は奈良興福寺宝蔵院の道場でした。試合で宗厳は信綱に手もなくひねられ、あっという間に敗れました。宗厳は計三度手合わせを願い出ますが、結果は全て同じでした。ここに宗厳は槍の名手として高名であった宝蔵院胤栄とともに信綱の弟子となり、以後剣技を磨くことに没頭、信綱が柳生を去る際には無刀で相手を制する秘技「無刀取り」の完成を託されます。そして宗厳はついにこれを完成させ、永禄八年(1565)四月に信綱より新陰流正統二世の印可を受けました。
この日、宗厳は柳生にて七十八歳の天寿を全うしました。意外な感じがしますが、新陰流の正統は有名な但馬守宗矩(宗厳五男)ではなく、嫡孫の兵庫介利厳が嗣いでいます。