後藤又兵衛 生誕日
基次公については昨年5月6日(命日)に同ブログでも木村重成と一緒にご紹介したのですが、3月下旬頃ですがたまたまお話した方から「又兵衛桜(奈良宇陀市)を観に行ったけど今年も綺麗だった」という話を聞いたのを思い出したので、1年ぶりに後藤又兵衛についてご紹介です^^
永禄三年(1560)4月10日
後藤又兵衛基次が後藤基国の二男として播磨姫路南山田に生まれる。
黒田家の猛将として数々の戦いに活躍、後に大坂の陣で壮絶な戦死を遂げた後藤又兵衛基次は、この日播磨別所氏配下の土豪・後藤将監基国の二男として姫路南山田に生まれました。幼名は弥太郎、長じて又兵衛のち隠岐守を称します。
播磨後藤氏は羽柴秀吉の中国侵攻により所領を失いますが、又兵衛は黒田孝高のもとで養育されました。しかし母の兄・藤岡九兵衛が逆心を抱いたため黒田氏から警戒され、又兵衛は天正九年(1581)に秀吉の臣・仙石秀久に預けられますが、同十三年に孝高の子・長政から呼び戻される形で再び黒田氏の臣となります。知行はわずか百石で栗山利安の配下としての待遇でしたが、黒田氏の臣となった又兵衛は持ち前の才気を発揮して活躍、次第に重く用いられるようになります。
又兵衛の名を世に広く知らしめたのは、文禄の役における第二次晋州城攻撃の際のことでした。又兵衛はこの戦いで「亀甲車」なる木製の人力戦車を操り、加藤清正の重臣・森本儀太夫や飯田角兵衛らとともに一番乗りを果たします。やがて関ヶ原合戦後に長政が筑前一国五十二万石を与えられ福岡に入部すると、又兵衛は筑前大隈城(福岡県嘉穂町)代として一万六千石を領しました。しかし長政との折り合いが悪く、孝高が没した二年後の慶長十一年(1606)、ついに又兵衛は黒田家を退去、長政と仲が悪かった小倉城(北九州市小倉北区)の細川忠興を頼ります。忠興は喜んで迎えますが、激怒した長政から強硬な「奉公構え」(再仕官させない処分)の横やりが入り、結局又兵衛は以後八年にわたって浪人することになりました。
同十九年、豊臣秀頼の求めにより大坂城に入った又兵衛は、真田幸村や長宗我部盛親らとともに大坂方の将として活躍、冬の陣では徳川方を悩ませました。翌年の夏の陣では河内道明寺で伊達勢と壮絶な戦いを繰り広げますが、萩野半之丞の銃弾を浴びて壮絶な最期を遂げています。
又兵衛桜
奈良県宇陀市にある枝垂桜。本郷の瀧桜の名で有名です。
道明寺の戦いで戦死したと伝わる後藤又兵衛ですが、宇陀市には生き延びて僧侶となり一生を終えたという伝説が残っています。
この桜も後藤家の屋敷跡にあった桜で樹齢300年と伝わっています。
曹洞宗 祝融山 多聞寺
多聞寺様は1616年、父である又兵衛を弔うために三男・佐太郎(太郎正方)が一周忌の5月6日に開創されたお寺となります。
又兵衛公にまつわる御朱印も用意されておりますが、御朱印帳も御歌頭さんとのコラボとなります。
多聞寺様限定の御朱印帳となりますので、参拝されました際にはぜひご確認下さい^^
(※両方とも残っているかどうかはわかりません。完売の際はご了承ください。)
◆曹洞宗 祝融山 多聞寺◆
住所:〒675-2242兵庫県加西市尾崎町288
TEL:0790-48-2484
電車:北条鉄道「播磨下里」駅から徒歩約15分。車で約5分。
車:山陽道「加古川北IC」中国道「加西IC」から約10分。
HP:http://www.tamonjihp.jp/index.htm
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慶長二十年五月、大坂。後続の真田幸村隊の到着を待つ後藤又兵衛基次は、若い近習に頼まれ、己の怒濤の生涯を語りはじめる・・・。黒田官兵衛のもとで武将の生きがいを知り、黒田家中有数の豪将に成長する。関ヶ原の戦いで「槍の又兵衛」と称される活躍で筑前大隅城主となるも、黒田家二代目・長政との確執から出奔し諸国を流浪。己の信念を貫いて生きた豪勇一徹な男の生涯を出雲阿国との交流を交えて描く長編小説。
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