武将印紹介29「堀秀政」(墨将印)

3月の墨将印(武将印)には織田信長・豊臣秀吉に仕え「名人久太郎(名人左衛門督)」の渾名で上下の者を問わず好かれた人使いの名人が登場です^^

 13歳の頃に信長の小姓となった秀政は、信長の言わんとしている事をすぐ理解できる優れた能力を持っていたと伝わります。1568年(16歳)頃には本圀寺の普請奉行など多数の奉行を任されたまさに秀才でした。

 1575年(23歳)には信長の側近としてだけでなく越前一向一揆討伐に参加。一介の武将として紀伊雑賀攻めにも参加しており、1581年(29歳)には長浜城主となりました。

 

1582年(30歳)明智光秀が謀反を決めた一因ともいわれる、安土城での徳川家康の接待役から外されると、丹羽長秀・長谷川秀一らと共に接待役を見事に務めあげました。そのあとは信長の命により備中高松城を包囲して水攻め中の秀吉の下へ軍監役として向かっています。

 備中高松の陣で明智光秀の謀反を聞かされた秀政は、すぐに秀吉に同行することを決めて中国大返しで京都まで急行。「山崎の戦い」では従兄の堀直政とともに先鋒として活躍しました。この戦いで秀政も鉄砲を使っていた事が伝わっています。山崎合戦後、明智軍殲滅の為に近江国へと向かい、馬に乗ったまま湖水を渡って逃れた秀満を追い、坂本城を包囲して自害へと追い込みました。同年に行われたの「清洲会議」後には佐和山城90,000石を拝領して正式に秀吉の家臣になっています。

 

 その後も「小牧・長久手の戦い」、紀州征伐や四国征伐にも参戦。1590年2月より始まった小田原征伐にも参戦。特に「山中城の戦い」では右翼の大将として18,300の兵を指揮して山中城陥落に貢献するも、小田原海蔵寺に陣を敷いていた小田原城包囲中の5月、陣中にて病に倒れて亡くなりました。享年38歳。

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