武将印紹介25「佐竹義重」(墨将印)

天文十六年(1547)2月16日は「鬼義重」の異名を取った佐竹義重が生まれた日となります。

 後に「鬼義重」「板東太郎」の異名を取った佐竹義重は、この日常陸の名族で太田城(茨城県常陸太田市)を本拠とした佐竹義昭の子として生まれました。幼名徳寿丸、のち常陸介を称します。余談ですが、常陸国・上総国・上野国は古くから親王統治国とされ、戦国武将に常陸守・上総守・上野守は存在しません。織田信長が一時期「上総守」を称していることが知られますが、もちろん正式な任官ではなく自称です。

 義重が歴史に登場してくるのは永禄五年(1562)、十六歳の時のことです。この年、まだ三十二歳の義昭は義重に家督を譲り、隠居して源真と号しました。義昭は同七年に上杉謙信の助けを得て北条氏と結んでいた小田城(同つくば市)主・小田氏治を攻め、小田城を奪います。しかしそれも束の間、翌八年八月には再び小田城を奪い返されてしまい、さらに十一月には義昭がまだ三十五歳の若さで病没します。

 当時関東の地は上杉・武田・北条の三氏の争奪の場となっており、各氏の思惑もあり盛んに外交や調略が行われていました。義重は概ね上杉謙信に従い、下野の宇都宮氏らと結んで北条氏と対抗、その隙に北部(東北地方)へと勢力を伸ばします。しかし北には伊達氏がいるため、そう簡単に版図は拡げられません。結局義重は伊達氏と北条氏という二大勢力と対峙する生涯を送りました。

 元亀二年(1571)五月、北条氏政は二万の兵を率いて義重方の多賀谷政経を下総下妻城(同下妻市)に攻めます。義重は宇都宮国綱とともに救援に向かい、北条勢を相手に素晴らしい活躍をしました。義重は黒糸縅(おどし)の鎧に鹿角をつけた大立物の兜をかぶり、黒鹿毛の馬にまたがって突撃を敢行、あっという間に北条勢七、八人を斬り捨てたと伝えられます。この鬼神のような働きに敵も味方も驚き、以後義重のことを「鬼義重」あるいは「板東太郎」などの異名で呼んだということです。

 義重は天正十七(1589)年に家督を嫡子義宣に譲って隠居、慶長十七年(1612)四月十九日に六十六歳の生涯を終えています。

 

 

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