御城印紹介14 人吉城(墨城印)
天正九年(1581)12月02日のこの日、肥後響野原の合戦で人吉城主・相良義陽が甲斐宗運に敗れ討死しました。
肥後相良氏は人吉城(熊本県人吉市)を本拠とする名族で、戦国期には八代古麓城(同八代市)の名和顕忠を下して勢力を広め、肥後南部の雄として存在していました。十八代当主となった相良義陽(よしひ)は天文十八年(1544)二月、晴広の子として木枝上田館(同錦町)で生まれました。初め頼房と名乗り、同七年に従四位下修理大夫に叙任、将軍足利義輝の偏諱を受け義陽と改名しています。
天正六年(1578)十一月の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、北上を企図する島津氏は次なる矛先を相良氏に向けてきました。その頃肥前の龍造寺氏も隈府城(熊本市)制圧を策して相良氏に援軍要請を求めますが、義陽はこれを断っています。
この年の八月、島津氏は肥薩国境に近い水俣城(同水俣市)へ攻め寄せました。守将の犬童頼安の奮戦も及ばず、結局降伏と同じ和議を結ばされる結果となり、やがて八代も島津氏の支配下となります。そして島津義久は義陽に対し、御船城(同御船町)の甲斐宗運討伐を命じました。義陽は同八年十一月以来、阿蘇氏の筆頭家老・甲斐宗運とは親交を結んでいました。義久の命を拒めば滅亡は明らかで、宗運を討てば日頃の信義に背くことになります。義陽は迷い悩み抜いた末に遂に決断を下し、宗運討伐への出陣を承諾しました。
義陽は戦死を決意していました。彼は家臣の反対を押し切って響野原(同宇城市)に陣を敷きますが、これは正に「背水の陣」で、友人であり義陽をよく知る宗運は初めはこれを信じませんでした。物見の報告によって事実と知った宗運は、「さては相良の命運も尽きたか、自ら死地を選んだとか思えない」とまで述べています。宗運には彼の心中がよくわかっていたのでしょう。決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かなかったと伝えられます。そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫りました。
義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます(別の士が首を取って宗運に献じています)。宗運は変わり果てた義陽の姿に涙を流して合掌し、深く同情して義陽の死を悼みました。義陽は歌道にも秀でた文人でもあり、家中からの信頼も厚く、また慕われていたようです。後に生き残った犬童頼安は密かに戦場を訪れ、義陽の墓前に一首を献じました。
思いきやともに消ゆべき露の身の 世にあり顔に見えむものとは
頼安の亡君に対する思いがひしひしと伝わってきます。義陽享年三十八。島津氏でもさすがに気の毒と思ったか、子の忠房に家督を認めて人吉城を返しています。
その後天正十三年(1585)、宗綱が戦死するとすかさず北条氏は佐野氏に圧力を掛けます。佐野氏は宗綱に男子がなかったたため、氏政の弟・氏忠を養子として迎えて家督を嗣がせることになり、ここに唐沢山城は北条氏の属城となりました。
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