御城印紹介13 唐沢山城(墨城印)

本日10月27日は謙信が唐沢山城を攻略した日となります。

 

永禄七年(1564)10月27日のこの日、再び背いた佐野昌綱の下野唐沢山城を謙信が攻め落としました。

 

 唐沢山城(栃木県佐野市)は別名佐野城・根古屋城とも呼ばれ、足尾山系の南端・唐沢山(標高250m)の山頂から中腹にかけて築かれており、戦国期には佐野氏の居城でした。下野南部の要衝であるこの城は、越後上杉氏と小田原北条氏の勢力争いに巻き込まれ、当時の城主昌綱は事あるごとにどちらに加担するか難しい選択を迫られていました。

 昌綱は豊綱の子で享禄三年の生まれとされ、これを信じると永禄七年当時35歳、上杉謙信と同年ということになります。昌綱は永禄元年に父豊綱が没したため家督を嗣ぎ、古河公方足利義氏に従って多くは北条方につきますが、このため謙信から数度にわたって攻められることになります。昌綱に限らず、関東の国人領主たちは謙信に攻められると降伏するものの、陣を払って越後に帰るとまた元に戻るという状態が繰り返されており、これには謙信も相当苦労していたようです。

 

 謙信による永禄七年十月の唐沢山城攻撃は、実に四度目のことでした。激戦となりますが昌綱は踏ん張り、謙信はなかなか城を抜くことが出来ません。しかし、いくら城が堅固でも佐野氏の兵力では謙信といつまでも対峙できるわけはなく、結局昌綱は佐竹氏や宇都宮氏の説得もあって謙信に降伏、開城しました。その際上杉家から一族の長尾虎房丸を昌綱の猶子として迎えることになり、同時に唐沢山城番として謙信の重臣色部勝長が派遣されてきました。『北越軍談』によると、虎房(坊)丸は謙信の従兄弟に当たる長尾謙忠の二男とされていますが、事実かどうかはわかりません。

 さて、収まらないのは小田原北条氏です。北条氏康・氏政父子は早速唐沢山城に攻め寄せました。佐野氏は必死に防戦して何とか事なきを得ましたが、以後北条氏の攻撃を受けることになりました。唐沢山城の城番は色部勝長の没後は子の顕長が務めたようですが、昌綱が天正二年に没して宗綱が家督を嗣いだ頃には越後に戻っているようです。

  

 その後天正十三年(1585)、宗綱が戦死するとすかさず北条氏は佐野氏に圧力を掛けます。佐野氏は宗綱に男子がなかったたため、氏政の弟・氏忠を養子として迎えて家督を嗣がせることになり、ここに唐沢山城は北条氏の属城となりました。

 

 

 

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