御城印紹介38 駿府城(墨城印)

慶長11年(1606)2月17日は駿府城の天下普請が始まった日となります。駿府城は三度建て替えられているので2度目の築城時にまつわる日です。

 

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今日は駿府城の築城の歴史を簡単にご紹介します^^

 

天正期駿府城天守

1回目となる幻の天正期駿府城ですが、徳川家康の五カ国統治時代(三河国・遠江国・駿河国 ・甲斐国・信濃国)の天正13年(1585)、松平家忠を築城奉行として築城が開始されました。『家忠日記』では天正16年(1588)5月12日「御天守なる」とされていています。ただ残念ながらこの時期の駿府城がどういう縄張りであったのか全く分かっていません・・・。
また秀吉が小田原征伐への準備を進めていたこの時期、家康自身が駿府に戻る時間も殆どなく、この完成した天守に入城する機会がないまま移封。豊臣家の中村一氏に引き継がれたとされています。
 

慶長12年の駿府城天守
関ヶ原合戦を経て江戸幕府を開府した家康は慶長10年(1605)3月20日、自らの隠居地として駿府の地を定め、将軍職を秀忠に譲りました。その1年後となるこの日慶長11年(1606)2月17日から天下普請として阿倍川と藁科川を合流させるなど周辺地域も含めた大改修が開始されました。このとき城主であった内藤信成は長浜城へと移され『家忠日記』や『当代記』によれば同年7月3日にはひとまず完成したとして家康も駿府に移り住みました。ちなみに内藤信成ですが、ただの家臣ではなく、内藤清長を養父とする家康の「異母弟」といわれており、一時期でも駿府城が任されたように信用に足る身内であった事が知られています。

ひとまず完成、、、というのも、7月時点では大御所政治の舞台となった本丸御殿はあるものの、天守は天守台が完成したのみで三の丸も無く、二の丸の範囲内での整備拡張が続けられている状態でした。しかし天守の大改修が進む同年12月22日、大奥の局の物置で使用されていた手燭からの出火が原因で本丸御殿や天守が焼失してしまい、その姿を消しました。

画像は駿府城の石垣と本丸堀(復元)

 

慶長期駿府城天守
本丸御殿や天守などの主要な部分が焼失してしまったものの再建は素早く、翌慶長13年(1608)3月には本丸御殿が完成。天守も再建が進められ慶長15年(1610)には完成したとされています。このとき家康も火事に強い建物を求めたようで、瓦を鉛で葺いていた「鉛御殿」であったとも伝わります。

しかし家康死去後の寛永12年(1635)11月、茶町からの出火が駿府城まで広がり再度焼失してしまいました・・・。残っていればかなり豪華な城だったようなので残念ですが、『当代記』には五層七階の天守であった事、広さや装飾などが書き残されています。