御城印紹介33 上田城(墨城印)
本日9月6日は美濃へ向け中山道を進軍中の徳川秀忠が真田昌幸・幸村(信繁)親子の籠もる上田城を攻撃した日となります。
順風満帆だった秀忠にとっては想定外の出来事となった上田城攻め(第二次上田城の戦い)。
一方で秀吉から「表裏比興の者」と評された昌幸の見事な采配が光る出来事でもありました。
墨城印第8弾として販売しました「上田城」は千曲川分流の尼ヶ淵が眼下に流れる在りし日の上田城、上田城の別名でもある「尼ヶ淵城」を再現した墨絵画となります。
『表裏比興』
上杉家文書や杉原謙氏所蔵文書にも描かれている秀吉の昌幸評として知られています。
上杉家文書では天正14年(1586)9月25日羽柴秀吉が上杉景勝に宛てた真田家成敗の中止を伝える書状と、石田三成・増田長盛連署(同日付副状)のなかで「表裏者」と記されていたことが伝わっています。
「真田事、先書に仰せ遣わせ候ごとく、表裏者候あいだ、御成敗の儀、家康仰せ出だされ候といえども、この度の儀、まずもって相止め候」
当時の出来事として、真田家と徳川家の間では沼田領を巡っての領土問題が発生しており、同年7月17日には家康自身が真田討伐の軍を起こしています。このことは家康が豊臣政権へ従属する障害の一つでもあったとされており、真田家との繋がりが強い上杉家にも事前に手を貸さないようお達しが出されました。
実際に「表裏比興」と記されているのはそれより以前、8月7日付けの上杉景勝宛・増田長盛・石田三成連署副状(『杉原謙氏所蔵文書』)とされています。このなかでは上杉景勝に対し、
真田(昌幸)は「表裏比興者」なので成敗することにした。家康が人数を出すだろうが、そちら(景勝)から真田を支援してはならないと関白様(秀吉)が仰せだ、としています。
「表裏比興」(老獪なくわせ者)と聞くと現代では卑怯者呼ばわりされているように聞こえますが、戦国時代では権力者からの最高の賛美であった事は間違いないでしょう^^
慶長五年(1600)9月6日「第二次上田城の戦い」
徳川家康が上杉氏討伐へ出陣した際、真田昌幸は初め家康に従って会津へと向かっていました。ところが七月二十一日、下野犬伏(栃木県佐野市)に着陣した際に密使が駆け込んできたことから事態は動きます。その使は彼と仲が良かった石田三成から発せられたもので、西軍の挙兵を報じて昌幸の加担を求めてきたものでした。昌幸は早速息子の信之・幸村兄弟を交えて話し合いを行い、その結果昌幸と幸村は西軍に、信之は東軍に分かれることになりました。
昌幸・幸村父子は急ぎ上田へと戻りますが、途中沼田城(群馬県沼田市)で一泊する予定でした。しかし父子が東西に分かれたことは既に沼田城に報されており、留守を守る信之の妻小松殿(本多忠勝の娘)に頑として入城を拒否されます。このとき、昌幸は「せめて孫の顔だけは見せてくれ」と小松殿に頼み、城壁越しに孫の顔を見て上田へ戻っていったというエピソードが伝えられています。
さて、昌幸父子と戦闘を交えることになる秀忠は八月二十四日の朝に兄の結城秀康の見送りを受け、本多正信・榊原康政らとともに三万八千の兵を率いて宇都宮を出陣しました。九月二日に信濃小諸城に入った秀忠は、ここから上田城の昌幸のもとへ使者を発して開城を勧めますが、昌幸は拒否しました。秀忠はさらに信之の処罰(切腹)と城への総攻撃をちらつかせて翻意を促しますが、昌幸は「たとえ信之が切腹させられ城攻めに遭おうとも、君臣の道は踏み外せぬ」とはねつけました。
怒った秀忠は諸将を集めて軍議を開き、結果は直ちに城を攻め落として美濃へ向かうことに一決しました。このとき秀忠勢は近所の民家に分散して宿泊していましたが、榊原康政は「真田は軍謀老練、早速今夜にも夜討ちを仕掛けてくるかもしれない、油断のないように」と提案、諸将は野陣を張り篝火をたいて警戒を強めました。実際、幸村は夜討ちを仕掛けようとしていたのですが、厳重な警戒に引き返したと伝えられます。
秀忠勢はこの日、小諸から染屋平に出て上田城に対峙しました。昌幸父子が四、五十騎で物見に出ていたのを見て秀忠は鉄砲で撃たせますが、昌幸は何喰わぬ顔で引き返します。一方、城外の川辺に尼が淵というちょっとした要害があり、伏兵がいるのではないかと牧野康成が調べたところ、案の定伏兵が急に現れて襲いかかってきました。これを見た大久保忠隣・本多忠政隊も横合いから攻め掛かり、ここに戦いが始まりました。
兵数に勝る秀忠勢が真田勢を城際まで追い詰めたと見えた瞬間、門を開いて幸村が突撃してきました。同時に虚空蔵山の林でおびただしく鬨の声が上がり、伏兵が槍先を揃えて秀忠勢を挟撃します。こうして寄せ手が混乱したところへ昌幸が八十騎を率いて出撃、秀忠勢を散々に蹴散らしました。秀忠勢は見事に昌幸の計略にはまって敗れ、城を遠巻きにして善後策を協議しました。結局は城に押さえの兵を置いて先へ進むのですが、これが十日のことです。昌幸に足止めされて費やした数日の代償は大きく、この時点で秀忠の関ヶ原決戦への参陣は不可能となっていました。