武将印紹介55 弥助(墨将印)
今週末に向けて台風が本州も横断しそうで全国的に天候が荒れそうですが皆様は大丈夫そうでしょうか^^:
防災の備えとともに強風で怪我などなさらないようにお気を付けくださいm(_ _)m
オリンピックも終幕し、、とはいえまだ8月の暑さも続いておりますが、今月の墨将印はちょっと意外な人物として海外勢から弥助が登場です^^
ワーナーアニメ『YASUKE -ヤスケ-』や映画化が決定した『Black Samurai(仮題)』など、海外でも何かと話題になる事が増えました弥助。最近ではとくに『アサシン クリード シャドウズ』の「黒人侍」という扱いで炎上騒ぎにもなってますが・・・・このタイミングでの販売となってしまいましたが、戦国魂としては炎上したくないので悪しからずです^^;
弥助(やすけ、生没年不詳)
織田信長の従者として仕えたアフリカ人(現モザンビーク)の家臣。
史料としては『イエズス会日本年報』『信長公記』『家忠日記』『日本教会史』に記載がある程度となります。『家忠日記』では「弥介」とも書かれていますが便宜上、弥助で統一させていただきます。
『日本教会史』は当時書かれた史料ではないため真偽は定かではないですが、もともと弥助はモザンビーク出身で南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンにある喜望峰(Cap de Bonne-Espérance)付近に在住していたとされています。どのような経緯で奴隷となったなどは伝わっていませんが、天正9年(1581年)2月23日ある神父(不明)が信長と面会した際に伴っていた奴隷の一人とされています。この2日後にはイエズス会宣教師・ヴァリニャーノが信長との初面会を果たしており、弥助はヴァリニャーノたちと同じ船でインドから渡ってきたとされているので天正7年(1579)に日本に来たと考えられています。
信長は弥助の容姿に驚きながらも本当に気に入ったようで、天正9年(1581)3月11日附『イエズス会日本年報』では、弥助の姿を一目見ようと多くの人々が弥助が宿泊していた修道院に詰め寄るなか、、、家臣らを連れた信長の姿があります(笑)
信長が気になっていることを知った宣教師・オルガンティノは弥助を連れ出して同行させました。信長が指示したのかは不明ですが、そこにいた全員が墨などで肌を黒く色を塗っているだけではと信じて疑わなかった為、弥助に着物の上だけをはだけさせたといいます。初めて見た黒人に信長の甥・津田信澄も大喜び。信澄は銭一万(十貫文)を与えた(寄付した?)とされています。
その後、信長に譲られた黒人奴隷・・・と書くと現代では色々引っかかるのでしょうが、信長の従者となった弥助。その容姿についてもある程度は伝わっています。
『信長公記』には「2月23日、切支丹の国より黒坊主がきた。年は16、17に見えた。その身体の黒きことは牛の如く。かの男は体格も良く才覚や容姿にも優れていた。しかも十人力の剛力の持ち主であった。」(意訳)とあり、天正10年(1582)4月19日附(信長が甲州征伐の帰国時に徳川家康のもとを訪れた際)の『家忠日記』では松平家忠本人が弥助を目撃した内容として「信長様が扶持を与えた黒人の身長は約182cm、名は弥介(弥助)。」(意訳)とあります。
信長から扶持のほか屋敷や刀まで与えられた事から、周りからは「ゆくゆくは城持ち大名として領地も与えられるのではないか・・・」と噂されるほどだったとも伝わっています。
出会いから1年4ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日「本能寺の変」で信長が明智光秀の裏切りに遭って亡くなった際にも、森蘭丸らと同じく傍にいたとされています。『イエズス会日本年報』によれば信長に譲った黒人奴隷の事が記されており、これが弥助のこととされています。
信長の死後、本能寺を脱した弥助は、信長の命もあったのか無かったのか、妙覚寺(ないしは二条新御所)で明智軍と戦っていた信長の嫡男・信忠のもとに駆けつけ抵抗を続けました。勝負も決して投降する際には明智の家臣の一人が弥助に対し「その刀を差し出せ」と迫り、弥助も刀を渡しましたとあります。
弥助の処遇について聞かれた光秀は「黒奴は動物で何も知らない。また日本人でもないのだから殺すまでもない。インドからきた宣教師の聖堂(南蛮寺)に連れていけ」と命じたため、(弥助と思われる黒人は)南蛮寺に送られて命拾いしたと考えられています。
京の民衆などからも注目を集めた人物にも関わらず、その後の消息については一切伝わっていないのも弥助の魅力なのかもしれません。のちの「伴天連追放令」などで国外追放されたキリシタン武将などと共に日本を離れたのか、日本の地でひっそりと亡くなったのか、、、謎も多い弥助。
御歌頭さんの墨絵画によってよみがえった弥助もぜひご愛顧いただければ幸いです^^