武将印紹介53 島津義弘(墨将印)
本日7月23日は永禄七年(1564年)北条氏康・氏政が太田資正から武蔵岩付(岩槻)城を奪取した日となります。太田資正といえば日本で初めて軍用犬「三楽犬」を駆使して合戦を行ったことでも知られる扇谷上杉家の名将の一人です。
そんな資正でも北条家の侵攻には勝てず、最後の反撃を試みた資正は同年1月里見義弘と共に下総国国府台にて北条家と戦うも敗北。再起不能とみた氏康は還俗させた資正の子・氏資を岩付城への使者として送って降伏させ、資正はこの日岩付城を追放されました。
ーーーーーー
と、、、出だしから本日のテーマから逸脱しましたが(笑)
同じく7月23日は島津義弘公の生まれた日となるので本日は改めて墨将印をご紹介となります。
祖父・島津忠良(日新斎)から「雄武英略をもって他に傑出する」と評された島津四兄弟の次男で『鬼石曼子(鬼島津)』の異名で恐れられた猛将です。島津家が豊臣秀吉に降伏後、義久に代わる人物として義弘を独立した大名として認めていますが、個人的には実際に「17代当主」だったのかどうか、自記からは弟として兄の義久を尊重し続けた人物であったことも分かりますし、絆の強さが伺える四兄弟の関係性もあるのでちょっと気になります^^;
ただ義久公も義弘公も素晴らしい人物なのと、第一史料だけでなく逸話なども尊重すべきなのでそんな重要な事ではないのですが、、知りたい気持ちもあります(笑)
ともあれ義弘公についてと墨将印の販売ページも紹介をもって本日のブログとさせていただきますm(_ _)m
天文四年(1535)7月23日島津義弘誕生
島津義弘が貴久の次男として薩摩伊作(いざく)城で生まれる。
島津義弘はこの日、貴久の次男として伊作(亀丸)城(鹿児島県日置市)に生まれました。通称又四郎、諱は忠平・義珍(よしたか)・義弘の順に改めます(以下義弘で統一)。また兵庫頭を称し晩年には惟新と号しました。貴久には義久・義弘・歳久・家久の四人の子がいましたが、皆傑物と言って良く、特に義弘と家久は名将として知られる祖父・日新斎忠良からも、その勇武に優れた資質を認められていました。この稿では義弘の前半生をざっとご紹介します。
義弘の初陣は天文二十三年(1554)のことでした。この年の九月、祁答院(けどういん)良重を中心とした蒲生(かもう)範清・入来院重嗣・菱刈隆秋らの国人衆が、島津方の肝付兼演が守る大隅加治木城(鹿児島県加治木町)に攻め寄せました。貴久は直ちに加治木城救援に向かいますが、その際義弘は蒲生範清の臣・西俣盛家の守る岩剣城(同姶良町)の攻略に当たりました。九月十二日より攻撃を開始したものの、岩剣城は天険の要害で城兵の守りも堅く、一進一退の攻防が続きます。しかし十月二日、貴久は岩剣城への総攻撃を命じると、義弘らは救援に駆けつけた祁答院重経や蒲生勢二千を兄義久とともに撃破したのちに城を落としました。ちなみにこの戦いは、我が国で鉄砲が組織的に実戦で使用された初の戦いと言われています(史料の初見では同十八年に貴久の家老・伊集院忠朗が加治木城の肝付兼演を攻めた黒川崎の戦い)。
この後義弘は岩剣城に入り、麓に館を築いて在番しました。しかし永禄三年(1560)、日向戦線で伊東氏の圧力が増してくると、義弘は豊州家の忠親に請われて養子となり、飫肥城(宮崎県日南市)の守備を任されます。三年後に貴久の命で薩摩に戻ると、同七年には真幸院の飯野城(同えびの市)将を命ぜられ、難敵伊東氏と対峙します。義弘は元亀三年(1572)五月四日、三千の兵を率いて攻め寄せてきた伊東軍をわずか三百の兵で迎え撃ち、激戦の末にこれを破って武名を益々高めました(木崎原の戦い)。以後義弘は飯野城を居城とし、天正十八年(1590)六月に栗野松尾城(鹿児島県湧水町)に移るまでの二十六年間を過ごすことになります。