御城印紹介4 「小田原城」-北条期-(墨城印)
現在ある小田原城は江戸時代の天守を再現した復興天守ですが、今回ご紹介する墨城印・小田原城は北条期の”八幡山古郭”と呼ばれる小田原城をイメージした御城印となります。
大坂城を凌ぐ総構
その最大の特徴といえるのが北条氏政・氏直父子が築かせたという全長9kmにも及ぶ「総構」であり、当時は豊臣秀吉の大坂城をも凌ぐ規模であったといいます。
土塁と空堀、とくに山中城などでも有名な障子掘による総構は、21万という圧倒的な兵力で来攻した豊臣軍(籠城した北条軍は3万4千)でも容易に攻め込めませんでした。北条氏康の時には上杉信玄・武田信玄の来攻にも耐えた城なので(石垣の城でない)土塁の城としてはまさに戦国最強の要塞だったのではないでしょうか。小田原征伐から4年後の1594年、秀吉は大坂城にも総構を採用。築造を開始しました。その効果は「大坂冬の陣」での徳川軍の城攻めの際に結果として現れ、家康はその後の和睦交渉で総構の埋め立てを条件に加えています。
北条五代の居城として知られる小田原城ですが、北条家が退城すると徳川家家臣・大久保忠世が入り、大久保忠隣の時に石垣や瓦による近代城郭に変わったと伝わります。徳川家光の乳母である春日局の子・稲葉正勝が小田原城主となり大改修を行い、現在で知られている小田原城の形になりました。それでも北条家時代の総構は町の一部として残り、現代でも良好な状態の遺構をみることができます。
一時は秀忠の隠居城としても候補に挙がった小田原城。
1634年には家光が乳兄弟である稲葉正勝のもとを訪ね、小田原城に宿泊したという記録も残っています。
全国にも13城しかない「復興天守」。関東の方には一番近い復興天守となりますので、箱根の温泉と共にぜひ小田原にも足をのばしてみて下さい。
JRで行かれる方はぜひ小田原駅の発車メロディー「おさるのかごや」もお聞き逃しなく・・・♪^^
■御城印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)
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