武将印紹介52 島津歳久(墨将印)
本日7月18日と言えば451年前の天正元年(1573年)、宇治槙島城に置いて織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭を降伏させた日、すなわち「室町幕府が滅亡した日」とされています。
また命日としては島津四兄弟の中でも酒豪として知られる歳久公が自害した日となりますので今回はこちらの紹介となります。
祖父の島津忠良(日新斎)からも「始終の利害を察するの智計並びなく」と評されたほどの人物であり、島津家の中でも秀吉に対しても最後まで強硬な態度を取り続けた事や同時期に不運が続いたことで兄・義久に討伐の兵を向けられた事で知られています・・・(´;ω;`)
自害する際には中風を患っていたことから刀が握れず、近くにあった石を使って切腹したとも伝わっています。義久から肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられた歳久公の首級ですが、首実検後には京都に送られて千利休のときと同じく一条戻橋にさらされました。
当時島津家からの人質として伏見にいた島津忠長が、さらされていた従兄弟の首級を哀れに思い、身の危険を顧みずにひそかに盗ませて今出川にあった浄福寺に葬ったという話も伝わっています。
家臣や一族からも慕われていた歳久公に想いを馳せるとともに、ぜひ墨将印島津歳久もご愛顧いただけましたら嬉しいです。
文禄元年(1592)7月18日島津歳久自害
梅北の乱の責任を問われた島津義久の弟歳久が義久の軍勢に襲われ、少時抗戦の後自害。享年56歳。
島津歳久は天文六年(1537)七月十日、貴久の三男として伊作亀丸城(鹿児島県日置市)に生まれました。兄に義久・義弘、弟に家久がおり、通称又六郎、左衛門督を称し、後に日置島津氏の祖となります。永禄六年(1563)の横川攻め以来数々の戦いで軍功を挙げ、島津氏の三州統一に大きく寄与しました。豊臣秀吉の九州攻めの際には島津氏は当初抗戦、前哨戦となった豊後戸次川の戦いにおいて秀吉方の先鋒・仙石秀久を撃破するなど気勢を上げますが、翌年秀吉は自ら大軍を率いて九州に乗り込み、各所で島津勢を攻撃しました。
島津氏は激しく抵抗したものの圧倒的な兵力差はどうしようもなく、やがて当主義久は頭を丸めて降伏を申し出ました。歳久も最後まで抵抗しますが、義久の説得により秀吉の軍門に降ります。ここまでは良かったのですが、養子の三郎次郎忠隣を日向根白坂の戦いで失ったこともあり、以後秀吉に反抗的な態度を取りました。しかも秀吉が自領祁答院(けどういん)にさしかかった際、家臣が秀吉の乗り物に向けて矢を射掛けるという事件も起き、また病と称して出仕せず自領に籠もっていたことから、秀吉にはマークされていたものと思われます。
その後暫くは平穏でしたが、秀吉の朝鮮出兵要請に際し、不運なことに歳久は病に伏していました。このため出陣できず、加えて島津家臣・梅北国兼らが肥後佐敷城を奪い反乱を起こした際(梅北の乱)、歳久の家臣たちが加わっていたことが後で判明します。秀吉は激怒して義久に歳久討伐を命じました。歳久は義久に呼び出されて鹿児島へ向かいますが、城下の異様な雰囲気に気づいて引き返し、竜ヶ水(鹿児島市)に籠もりました。そこで義久の追手・町田久倍と暫し戦いますが、ついに力尽きて自害しました。享年五十六歳。
辞世の句として
晴蓑(せいき)めが玉のありかを人とは々 いざ白雲の末も知られず
が伝えられています。