【今日の出来事】豊臣秀長死去

天正19年(1591年)1月22日は豊臣政権の調整役として大活躍した秀吉の弟・秀長が亡くなった日となります。

 

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天正19年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟の大和大納言秀長が病没。享年52歳。

 豊臣秀吉の弟・秀長は戦国時代の名補佐役として世に知られています。秀長は天文九年(1540)に尾張中村の百姓の子として生まれ、幼名を小竹、のち小一郎と称しました。秀長の母は大政所(なか)で秀吉の弟には違いないのですが、父親は秀吉の父・木下弥右衛門昌吉とする説と、継父・竹阿弥とする説があります。

 秀長は二十二歳の時、当時足軽頭だった兄秀吉の要請により侍になりました。もしこれがなければ、平凡な百姓として一生を終えていたかもしれません。しかし、兄と異なり温厚かつ思慮深い性格と言われる秀長は秀吉の良き相談相手となり、その出世を助けました。

 秀吉が中国方面司令官を務めていた頃、秀長は丹波~但馬~山陰地方で活躍しており、大和へ移るまでは但馬出石城を本拠としていました。ちなみに秀長は天正十二年(1584)頃までは「美濃守長秀」を名乗っており、秀長と改めるのはこれ以後のことになります。秀長は翌十三年に行われた紀州征伐の戦功により紀伊・和泉で六十四万石を与えられると、休む間もなく出陣を命ぜられた四国平定戦では総大将を務め、戦後大和一国を加封されて大和・紀伊・和泉三国百万石の主となりました。

 秀長は同年閏八月に大和郡山城へ入り、町作りを始めます。大和は古くから寺社の勢力が強く武家による統治が難しい土地柄なのですが、秀長は城下町建設にあたって強力な商業保護政策を採りました。すなわち奈良での商売を禁止、商売を希望する者はすべて郡山で行わせるというものです。このため城下は大いに賑わいました。秀長は同年十月には参議、翌十四年十一月には中納言となり、同十五年八月には従二位大納言に昇ったことから大和大納言と呼ばれました。

 同十七年十二月に秀長は病にかかり、翌年に行われた小田原征伐には参陣しませんでした。大和郡山城で静養するも病状は次第に悪化、ついにこの日世を去りました。心の大きな支えを失った秀吉は、やがて朝鮮出兵という暴挙に出ます。

転用石など見ごたえのある石垣が魅力の「大和郡山城」にもぜひ足を運んでみてください!!^^

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