武将印紹介34「鳥居強右衛門」(墨将印)

6月の墨将印(武将印)の新商品はNHK大河ドラマでも話題となった「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)勝商」となりました。

天正3年(1575)「長篠の戦い」で当時奥平貞昌(後の奥平信昌)に仕えていたとされる強右衛門は、長篠城の落城の窮地に際し、岡崎の徳川家康のもとへ救援要請の使者に自ら名乗り出たとされています。足軽の鈴木重政も使者の一人として伝わっているので、武田勢の包囲網をかいくぐって城を抜け出せたのが強右衛門と鈴木重政のみだったのかもしれません。

戦国版の「走れメロス」と呼ばれる所以でもありますが、強右衛門は三日三晩走り続けています・・・かなり元気な36歳のメロスです(;’∀’)
14日の夜に城を脱出すると翌日には家康に無事援軍要請をします。織田・徳川連合軍は翌日には出立することを伝えましたが、強右衛門は援軍の出発を待たずに長篠城へと戻り、16日に包囲網を突破できずに武田軍に捕まりました。

強右衛門への取り調べによって、長篠に織田・徳川の援軍が近づいていることを知った武田軍では、挟み撃ちにされる前に開城させねばと、強右衛門に城内に向かって援軍は来ないと虚偽の情報を伝えれば命を助けると伝えます。強右衛門も承諾したかのように見せかけ、城門近くまで連れてかれると「数日待てば援軍が来る」と叫んで松平軍を鼓舞しました。 

勝頼率いる武田軍は強右衛門を磔にして殺害したものの、士気を取り戻した長篠城を落とすことは出来ませんでした。この強右衛門の身を挺した功により、鳥居家の子孫らは奥平松平家の家老にまで昇り詰める家柄となりました。松平家(奥平松平家)でも、この戦を開運戦と呼んだと伝わるように九死に一生を得た重要な合戦として語り継ぎました。

その後も強右衛門の忠誠心は尼子家再興に尽力した山中鹿介と同様に「武士の鑑」の美談として語り継がれ、明治政府から太平洋戦争頃までにかけての「国定教科書」に取り上げられています。そのため、かなりご高齢の方やそれ以前の年代の方では知らぬ人はいない歴史上の人物の一人だったといえます。

 

開運男・鳥居強右衛門勝商に限り、墨城印は「参陣記念日」でなく「脱出記念日」としております。
商墨将印は戦国魂オンラインショップ・戦国魂天正記(東京ソラマチ店)などで販売中です。

墨将印38 鳥居強右衛門(税込330円)はこちらからご確認下さい。

 

 

落合左平次道次背旗

落合左平次道次が使用したとされる鳥居強右衛門を描いた旗指物です。
一時期は逆さ吊りが正しいとも考えられていた同旗ですが、近年では逆さ吊りではなかったとしています。

 

磔画像を背旗にしようとするのは現代人では考えられない奇抜さですが、感銘を受けた敵方の武田家武将(諸説あり)が使用したというのも戦国時代ならではです。諸説ありとしたのは落合左平次を武田家武将とする『甲陽軍鑑』と、長篠の戦いの際には既に徳川家家臣だった落合左平次道次とする『寛政諸家系図伝』などがあるためです。ともあれ鳥居強右衛門が亡くなった直後から、織田信長や徳川家康などからもその忠義心に対して高い評価を受けていた人物のため、感銘を受けた人が多かったのは間違いありません。