武将印紹介30 「長宗我部盛親」(墨将印)

5月15日といえば京都三大祭りの一つで初夏の祭礼「葵祭」の行列が行われる日ですが、今年は雨天予報により明日5月16日に開催日が順延となりました。今日開催できなかったのは残念ですが明日は京都も晴れそうなので4年ぶりに観れるかと思います。

京都のイベントは基本日付に忠実で、土日に合わせずの開催なので来れる方も限られるかと思いますが・・・今年は上皇様もいらしての開催となります。可能な方はぜひ明日京都で「葵祭」をお楽しみいただければと思います♪^^

 

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話を戻しまして本日5月15日は盛親公が京都六条河原で斬首された日となります。

大坂城落城後、再起を図った盛親公は、京都八幡へと移って潜伏していました。しかし食料調達のために小判を使用した事で潜伏が露見し、橋本付近の葦の中にいたところを蜂須賀家家臣によって捕まったとされています。また八幡市には盛親公が潜んでいたという屋敷跡というのも伝わっています。(石清水八幡宮駅のすぐ近く)

ともあれ、京都六条河原近くには墓所である蓮光寺などもありますので、お墓参りされた際などにはぜひ墨将印にも日付を入れて偲んでいただけますと幸いです。

■武将印
サイズ 105㎜×148㎜
和紙(日本製)

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ちなみに今月5月24日「武士の日」の武将駒も長宗我部盛親となります。
こちらもぜひお見逃しなく!!^^

元和元年(1615)5月15日

京都六条河原にて長宗我部盛親が斬首される。享年41歳。長宗我部家滅亡。

 長宗我部盛親は天正三年(1575)、元親の四男として生まれました。幼名千熊丸、通称右衛門太郎、のち宮内少輔、土佐守に任じます。天正十四年(1586)十二月、長兄信親が豊後戸次川の戦い戦死すると家督相続を巡って争いが起きますが、元親は二人の兄(香川親和・津野親忠)を差し置いて盛親に家督を嗣がせました。

 慶長五年の関ヶ原合戦の際には西軍に属し、五千六百余りの兵を率いて南宮山東南麓に布陣しますが積極的な戦いは行わず、西軍の敗報に接すると直ちに退却し土佐へと戻ります。その後井伊直政を通じて家康に謝罪しますが、その際に兄・津野親忠を切腹させたことを家康から咎められ、領国土佐二十二万石は没収され浪々の身となりました。

 京都へ赴いた盛親は大岩祐夢と変名、寺子屋の師匠をして生計を立てていたと伝えられます。しかし家康と豊臣家の対立が深まった慶長十九年、盛親は豊臣秀頼の招聘に応じて大坂入城を果たしました。冬の陣では五千の兵を率いて二の丸の南を守備、夏の陣では木村重成らとともに八尾方面に出撃し、藤堂高虎隊に大打撃を与える活躍をしました。戦況が絶望的となるや、落城寸前に盛親は城を脱出しますが、山城八幡近くの芦原に潜んでいたところを蜂須賀家の臣・長崎三郎右衛門の手に捕らえられ、伏見へと送られました。

 白州に引き据えられた盛親は、徳川秀忠の侍臣から「討死するか自害するか、そのいずれも選ばなかったのは不審である」と言われると、こう答えています。

「盛親も一方の大将の身。葉武者のごとき軽々しい討死などすべきではない」

 この言葉には石田三成の「干柿の逸話」と同様に、最後まで再起を諦めない心情がよく読み取れます。しかし盛親は許されることなく、この日六条河原で処刑されました。ここに土佐の名族長宗我部氏は滅びます。