武将印紹介23「蒲生氏郷」(墨将印)

文禄四年(1595)の本日、2月7日は蒲生氏郷の命日となります。

 

 蒲生氏郷は弘治二年(1556)、六角義賢の重臣で近江日野城(滋賀県日野町)主・左兵衛大夫賢秀の子として生まれました。当時六角氏は義賢に対する家臣たちの結束力が揺らいでおり、永禄六年(1563)十月の観音寺騒動で決定的なものとなりますが、蒲生氏は義賢・義弼父子を日野城に迎えて事態を沈静化させています。

 それも束の間、同十一年九月には足利義昭を擁した織田信長が、上洛途上に協力要請を断った義賢父子を観音寺城(同安土町)に攻めました。賢秀は初め抗戦しようとしますが、縁戚で信長に降っていた神戸友盛の説得を受けて開城、信長に降伏しました。ここに十三歳の氏郷(当時鶴千代)は人質として岐阜の信長のもとへと送られます。

 

 翌年、信長の伊勢大河内城攻めに父賢秀とともに従い、初陣ながら大いに活躍して周囲の人々を瞠目させました。信長からも目をかけられ、やがて元服して忠三郎賦秀(やすひで)と名乗ります(氏郷と名乗るのは天正十五年七月のことなのですが、以後氏郷に統一します)。さらに信長の娘・冬姫を室に迎え、人質を解かれて日野へ戻るなど破格の待遇を与えられています。

 氏郷は信長の期待に応え、大きな戦いにはほとんど出陣して活躍しました。信長が本能寺に倒れた際、氏郷は日野城にいましたが、安土城の留守を預かっていた賢秀と信長の家族や家臣達を迎えに行き、日野城に籠もって明智光秀に抗戦しました。

 やがて織田信雄と羽柴秀吉が対立しますが、賢秀・氏郷父子はどちらにつくか非常に悩みました。何と言っても氏郷の妻は信長の娘です。しかし蒲生氏は秀吉方につきました。氏郷は秀吉の下でも各地を転戦して活躍、天正十二(1584)年六月には伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)へ転封され十二万石を領します。さらに同十八年の小田原攻めの後には会津黒川四十二万石に加増転封、最終的には実質九十二万石、公称百万石の太守となりました。

 氏郷は文禄二年(1593)、肥前名護屋の陣中で病にかかりました。一時は快方に向かったものの翌年に再発、ついにこの日京都で没しました。享年四十歳、あまりに早い勇将の死に、毒殺説がまことしやかに囁かれたと伝えられます。

 

 

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